いつか自分の子どもを海外にやりたいと時折考える。そのためには言葉に頼らずともできる何かを確実に身につけさせておかなければ、と思う。間違っても「外国語が話せる」だけで満足してしまってはいけないと感じている。日本国内でいくら子どもに外国語を身につけさせても、現地の子どもの語学力には到底かなわないだろうと思うからだ。
例えば、アメリカ在住の家族が、子どもに3歳から日本語を覚えさせたとして、その子が中高校生になった時に、日本にいる日本の中高生の母国語レベルまで持っていけるだろうか。
こう考えるには理由がある。自分は英語がとにかく好きで、高校生の頃に渡米したこと には前記事:『苦手つぶし』よりも『得意伸ばし』を で触れたが、アメリカ留学中の私の生活を大きく助けてくれたのが語学力だけではなかったことが深くかかわっているのだ。
習い事の王道
昔から子どもがやる「習い事」と言えばピアノ、そろばん、水泳、サッカー…などが王道のようだが、どれも幼少期から10年続けることができたなら、それなりのレベルを身につけられ、しかも言葉に頼らずに披露できる技能ではないかと思っている。
最近では習い事ランキングの上位に「英語」が入っているが、今挙げた中では英語が一番、期待する結果を得にくい技能だと感じる。そもそも何を期待するのか期待値も設定しにくいが、英語を10年やって、それを海外で「披露」できるだろうか。結局、英語を用いて何を発言するか、が問われることになる。そしてそれには更に高度な国語力を要することになる。
子どもの将来に海外を考えるなら、英語を学ばせるのはごく自然なことのように感じるが、「日本の教育は暗記ばかり」と国内でも批判する声が上がっていながら、結果的に暗記がメインの語学に多くの親の興味が集中しているのがちょっと皮肉な感じがする。
“Going to a Lesson” by SAA
人を振り向かせるにはどうしたらいいかを考える
私が通ったアメリカのハイスクールはノースカロライナ州というとても田舎な南部にあったのだが、2000人規模のマンモス校だった。授業の終わるベルが鳴ると移動する学生で廊下はラッシュアワーの駅の構内のようになり、学校のランチタイムは昼に2時間、最初の1時間の学生と次の1時間の学生と、時間割りで2グループに分けられているほどだった。
登下校時には駐車場の車の出入りも多く、バスに乗り降りする学生で溢れかえっていた。そんな中では人を見つけて声をかけるのも一苦労。とにかく人が多い中、何もしなければ単なる2000人のうちの1人で誰からも覚えられずに終わってしまう。
そんな環境では、いかに周りにいる人を振り返らせることができるか、その人達に自分の印象を残すか、というのが、高校という小さな社会で生きていくためには必要だった。
さらに、結局はどんな社会でも「人」によって構成されている。高校だけに限らず、大人になってからも人の記憶に残ることがいかに大切かは日々感じている。
言葉に頼らなくても見せられるもの
さて、私の場合はそれが7歳からやっていたバイオリンだった。本当はピアノをやらせようとしていた両親に、やりたいと選んだのがバイオリンだったのである。
バイオリンやピアノという楽器は日本では音大に行く人なら3~4歳くらいから始めるのも珍しくなく、私などは遅い方だったと言える。それでもアメリカのハイスクールに入る頃には既に10年やっていたことになり、このバイオリンが、私にとっては言葉に頼らずとも周りにいる人を振り返らせることができるものとなったのだ。
バイオリンは高校卒業後の進路を示してくれたものでもある。高校在学中に、オーケストラのコンペに参加することもでき、そのお陰で、色々な音大から資料が届くようになった。アメリカの音大入試では、言葉だけに頼らないので臆することなく臨め、運よく大学から奨学金も出ることになったので、日本で私立の音大に通ったかもしれないことを考えると、経済的にも助けになったと思う。
言葉も後からついてくる
言葉というのはやはりツールで、必要となって使っていけば後からでもついてくるものなのだと思う。私の場合は不思議なことに、もともと興味のあった英語がついてくるようになると、それまで助けてくれたバイオリンからは自分の気持ちや興味が遠ざかるようになってしまったようで、音大卒業後は実はあまり弾いていない。
これはまたどこか言葉の通じない国に住むことになったら、また上手く弾けるようになろうと練習をするかもしれない。さすがに最低15年間は毎日弾いてきた楽器ということもあり、全く一から始めるのとは違う。何にせよ自分の中では、今でもバイオリンはセーフティーネットのような感覚はある。
さて、自分の子どもには何をさせるのか
幼少期~ティーンまでの間に身につけたものはそう簡単には忘れず、大人になっても残ってくれるものだ。その大事な期間を「初めまして」やら「私は~が好きです」などを覚えさせることに使うのはもったいない、と単純に思ってしまう。
10年後、マンガのキャラがとても上手く描けたり、長距離泳げたり、カッコいいダンスを披露できたり、素晴らしく暗算が速かったりする子の方が、人の記憶に残るのではないだろうか。
そう思いつつも、自分の子どもの適性みたいなものは考えなくてはならない。本当は歌が好きなのに無理やりバスケをやらせる、というのではダメなのだ。
親としては何とも自分の、人(子ども)を見る目を試されているような気がしてしまう。そんなことを考えながら、きゃっきゃと遊んでいる子ども達を見ては、将来大人になった姿を想像するのである。
“Run!” by SAA
文:キャッチポール若菜(映像翻訳者・通訳)
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