五輪目指してイタリアへフェンシング留学中~女子サーブル・櫛橋茉由選手の日々(1)

2020年の東京オリンピックを目指して、国内外で練習に励むアスリートたちがいます。

フェンシング女子サーブル・日本ナショナルチームメンバーの櫛橋茉由(くしはし・まゆ)選手もそのひとり。櫛橋選手は2015年から北イタリアの小さな街・トリエステに本拠地を移し、イタリア人コーチのクリスチャン・ラッシオーニ(Christian Rascioni)氏のもと、日々厳しいトレーニングを積んでいます。

留学プレスでは櫛橋選手のイタリアでの日常を追いながら、彼女の心の葛藤や喜び、フェンシングの道のりを東京オリンピックに至るまでインタビューしていくことになりました。

今日は第1回目。
留学に至る道のりや、この2年で櫛橋選手が「変わった」と感じていることからこの連載をスタートしていきます。


 

試合は、いい人では勝てない

--櫛橋選手がフェンシングを始めたのは何歳のときですか?

櫛橋選手:中学生(13歳)のときです。本当は剣道をしたかったのですが(笑)剣道部じゃなくてフェンシング部があったんです。

その頃はフルーレ(※注)に打ち込んでいて、中学三年から並行してサーブルを始めました。同志社大学へ進学し、本格的にサーブルへ転向したのはそれからです。

※注:フェンシングの種類
フェンシング種目はフルーレ、エペ、サーブルの3つ。それぞれが使用する武器の名前を表す。フルーレは軽めの剣を用い、有効面は頭部と四肢を除いた胴体の両面。エペはフルーレと対称的な重い剣で、全身と剣の内側の非絶縁部分が有効面。突きのみが有効なフルーレやエペと異なり、サーブルでは突きだけでなく斬りも有効となる。有効面は腰より上の上半身全て。オリンピックでは2004年から正式種目となった。攻撃権があるのはフルーレとサーブル。日本におけるサーブル人口はまだまだ少ないという現状がある。

--留学したのはいつですか?

櫛橋選手:大学を卒業して、一度は銀行に就職しました。実業団として競技に打ち込んだあと、4年間で貯めた自己資金をもとにイタリアへ留学したのが2016年、26歳のときです。今はイタリアのジュニアナショナルチームコーチでもあるクリスチャン・ラッシオーニさんをコーチと仰ぎ、修行しています。
 
 
--イタリアへ渡ってから、目に見えた成果はありましたか?

櫛橋選手:わかりやすいところで言えば、イタリアへ渡って2年目の2017年にナショナルチーム入りしたということですね。

日本ランキングは試合によるポイント制で確定されます。2016年は日本の試合に出場しなかったため、試合によるポイント制で確定される日本ランキングが低かったんです。2017年に入ってナショナルチーム選考対象の2試合で5位と3位の結果を残し、それによってポイントを獲得しました。結果、日本ランキングが急上昇したのを機にナショナルチーム入りとなりました。
 

 
--櫛橋選手は、全日本選手権でのトップを目標に掲げていますね。昨年12月に行われた全日本選手権の結果が9位でした。この結果について、御自身のなかで感じていることはありますか?

櫛橋選手:非常に不甲斐なく感じていますが、自分の中で大きな混乱を抱いたままの試合だったので、(そのなかにあっての)この結果は良い方向として受け止めています。
 
 
--大きな混乱ですか。たしかに12月中に櫛橋選手が大きな葛藤の中にいたこと、そんななか、試合を通じて得られた新しい一歩がブログから読み取れました。

出典:櫛橋選手のブログ(2017年12月10日)

試合中に自分を取り戻すことができた。
これが自分だ。
今まで修行してきた自分だ。

戦略やスキル面に関しては修正がもちろん必要だが、
私の心の中は晴れ渡っている。

雨が降って、止まなくて。
何をしていいかわからなくなって。
自分が信じれなくて。

(中略)

昨日の私。 何をしたか覚えていない。
勝手に身体がうごいていた。

負けたけど、中身を取り戻した。
今まで勝ってきた試合は全て、覚えていないのだ。何をしたか。

非常に繊細な感覚であるが、
この感覚と、心理状態は私の武器である。
それすら見失っていた2カ月。

人間とは面白いもので、考えるよりも、感じたほうが明らかに速い。
そしてそこまでいくには鍛錬が必要。
スーパーサイヤ人である。

 
 
--今、振り返ってみて、去年の12月というのは櫛橋選手にとってどんな時間でしたか?

櫛橋選手:10月から自分のステージが大きく変わり、11月、12月・・・と自分を見失っていました。非常に苦しく、自分への自信が全く持てなくなった時期でしたが、12月半ばからしばらく剣を置いたことで、自分のフェンシングを取り戻すことができました。
 
 
--しばらく剣を置くというのは思い切った決断だったのではありませんか?

櫛橋選手:器用な選手なら、このようなことにはならないと思います。本当なら不要な時間です。ですが、私は頭で考えすぎてしまうことがあるので、そのような中で剣を置くという時間は必要でした。
 
 
--「全日本選手権でメダルをとる」その目標についてコーチと話し合っていることはあろますか?今の櫛橋選手に何が必要で、何を身に付けていこう、とか・・・

櫛橋選手:コーチは私が国際的な選手になれるように常にサポートしてくれています。特に固定された「これが必要!」というものはないのですが、大切なのは戦術とそれを表現できる「脚」ですね。
 
▼櫛橋選手と、クリスチャン・ラッシオーニ コーチ

 
--イタリアの練習で、日本にいたころと違う点はどこですか?

櫛橋選手:イタリアのコーチにすべてを改革されましたね。イタリアでは基礎に大きな力を入れています。日本ではフェンシングの歴史が浅く、競技人口も多くありません。その点、イタリアでは子どものころからフェンシングに慣れ親しんでいて、徹底的に基礎を磨く土壌ができあがっているんです。
 
 
--なるほど。また一方で、たとえばメンタル面はどうでしょう。何か気持ちの面で変わったことがあったら教えてもらえますか?

櫛橋選手:日本にいた時は、非常に優しい選手だったのですが、イタリアにきてからかなり闘争心が大きく鍛えられました。

イタリア人は日本人に比べて、オンとオフの切り替えがとても上手です。練習の時は、日本人にありがちな「愛想笑い」など全くなく、真剣そのものです。全く笑いません。

そして、日本人はすぐに謝りますが、そのような気遣いもなく、フェアプレイですが「一点」に(対して)非常に貪欲です。

そのような背景から、私のコーチは常に私に「闘争心を燃やしなさい」と要求します。「狡く、そして相手を狩るように戦いなさい」と言われます。

そう習慣づけて練習に取り組んでいたせいか、以前よりかなり攻撃的になりました。世界ではやはり高い闘争心がないと、押し負けてしまいます。

試合の時だけは、私も悪者になることにしています。いい人では勝てないので。
 
 

アテネW杯で再び感じた「ゾーン」

櫛橋選手は今年3月、アテネで開催されたワールドカップに出場しました。

結果は初めての予選突破。しかし「ベスト64ならず。悔しす。。。」と語ります。

一方で、この日の試合では、またあの感覚がありました。

出典:櫛橋選手のブログ(2018年3月20日)

相手は格上だけれども、やるしかねえ。
ベンチには最強コーチ。よし。やるしかねえ。

15本勝負。8本で休憩が入る。
相手にリードされ、4−8で折り返し。

ああ、やっぱり相手は強い。このまま負けるのか私。

と思ったのだが、ベンチの最強コーチが怖くて
攻め続ける私。

ここから、記憶ない。

コーチの指示を、聞いて。
体に連動させて、やってみる。

操られていた。
コーチと、自分の感覚に。

久々のゾーン。
帰ってきた感覚。
覚えていない。

気づいたら、14−13でリードしていた。

この後一本何かをしたのだが、ジャッジミスで相手の点数になった。

14−14。

いつもの私なら、
そう、予選で一本勝負で負けて嘆いていた私なら、
この時何をやるか迷っていただろう。

しかし、コーチが助けてくれた。

マユ!!!!! できる!!!!

わかった。やる。
強く、決めた。

いつもは決める
心を
この時は
強く
決めた。

信じて、やった。

パン!!!
パン!!!
決まった。

あ、決まった。

ちなみにこの技術は、私が11月からながーい間、練習し続けていた技。

ついに、試合で決まった。
しかも一番大事な場面で。

頭で聞いた指示が、身体に染み付いた自分の技と連動した。

久々の、勝利だった。

 

 
留学プレスでは、この後も櫛橋茉由選手の道のりを追っていきます。
どうぞお楽しみに。

(留学プレス)

 

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