2016年10月13日、タイの国王プーミポン・アドゥンヤデート国王陛下が崩御されました。国王の体調がすぐれないと報道され、多くの国民が入院中のシリラート病院に集まり回復を願いましたが、帰らぬ人となってしまいました。まだまだ、悲しみの中にあるタイの様子をレポートします。
国王逝去ですぐに起こったこと。
プーミポン国王の崩御が、報道されました。最初に私が触れた悲しみは、タイ人の友人のLine、FBのアイコンが黒く塗りつぶされたことです。数日間はこのままで、その後モノクロの写真などの悲しみを表すものになっています。
報道で、公的機関の職員などは1年の間は喪服の着用、市民は1ヶ月は喪服を着用することが発表されました。タイの喪に服す色は、日本と同じ黒、白。雰囲気は、昭和天皇が崩御された時に似ていて、その時のことを少し思い出しました。
しかし、日本では国民が喪服を着用した記憶はありませんでした。翌日、家を出ると普通の民家でも白黒の喪に服す飾りが施されていました。街ゆく人は、黒の喪服か黒の服もしくは、ズボンは白という人ばかり、街からカラフルな色が消えました。
▼黒白の幕で悲しみを表す家の門
愛された国王
私がタイに引っ越したのは昨年11月でした。街のある店が、黄色の服ばかりを売っていることに気付きました。私は、黄色専門店なのかな?と思っていました。
しかし、その後多くの黄色いTシャツ、ポロシャツに出会うことになります。そして、月曜日には黄色い服を着ている人を良く見かけることに気付きます。12月5日は、プーミポン国王の誕生日で出生日は月曜日でした。タイは生まれた曜日で色が決まります。国王は、黄色の月曜日生まれだったのです。
12月5日、外出すると出会う人ほとんどが黄色の服や何か黄色いものを持っていました。タイ人の友人に聞くと国王の誕生日を祝いその気持ちを表している行動で、月曜日に黄色い色の服を着ている人を見かけるのも同じ意味だと教えられました。
街に出て、国王の写真や肖像画に出会わなかったという日は1度もありません。道路、大きなビルの前、レストランの中、タクシーの中様々な所に国王の写真や肖像画が飾られています。国民からどれだけ愛されているがよく解ります。
日本との関係
多くの日本企業が進出し、テレビをつけると日本アニメが見られ、日本に旅行に行く、行った、日本の料理が大好き、など親日家が多いタイです。プーミポン国王のカメラは、長年日本製だったという話は有名です。
国王は、1963年5月、国賓としてシリキット王妃と日本に来日して以来、皇室との関係もあります。タイの食糧事情が悪かった時代、国王は食糧事情を今の日本の天皇陛下に相談されました。皇居で、魚の研究をされていたこともあり、陛下はテラピアを送られたそうです。国王が親日家であるため、タイ国民も日本が好きでいてくれるのかもしれません。
現在の街の様子
崩御から数週間経った現在でも、街にはプーミポン国王の写真が飾られその前には記帳できる場所が設けられています。
▼地下鉄駅の記帳所
ネオンできらびやかな街バンコクの、いつもコマーシャルが忙しそうに流れていたスカイトレイン、バスの中の広告は国王のこれまでの偉業のビデオに代わっています。
街の大きなスクリーンも国王の死を悼んでいます。
まだまだ、タイは悲しみから回復していません。国王の御遺体があるパレスには、多くの人が毎日訪れています。
▼街の国王写真展
まとめ
即位70年の長きに渡りタイの支柱となり、国民に愛されたプーミポン国王陛下。私がタイに来た頃「国王もご高齢なので、もしものことがあればタイはどうなるのですか?」と聞いたことがあります。「これまでの人生の中で、国王がいなくなるという経験はしたことがないので想像できない、想像したくもない。」と答えが返ってきたのを思い出します。
今、タイには、これまで想像できなかったことが起こっていることが肌で感じられます。
これから、タイは過ごしやすい季節がやって来ます。観光客も増えるシーズンです。これから、タイに訪れる方は少し地味な服を着られる方が、今のタイの状況が身体で解ると思います。
文:Sazu Iwai-Pawle(タイ バンコク在住ライター)
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